インターネットは最悪。
僕はTwitterのタイムライン構築がほぼ完成してしまっているので、ツイッターランドのどこかで何かが炎上していたとしても、直接の火元が僕のTLに流れることは滅多にない。変なフェイクニュースやらが流れてくることもないし、企業の公式アカウントの変な発言もみたことがない。たまに誰かがそういうことがあったことを呟いていて、それとなく伺い知れるだけである。
火元に関連する発言をしているのもせいぜい一人か二人くらい1だ。うっとおしいと思ったらその一人か二人を1日ミュートにすれば良いのだろうが、そうまでしてTwitterを眺めたいとは思わないので、そういうときは閉じている。
おかげで僕のツイッターランドはいつも平和だ。気に入っている人たちの日常が流れてくるだけだ。強いて言えばもうちょっとかわいい動物の画像でも流れてくると嬉しいのだが。
実家にいるときは両親が大抵テレビを付けていたので、嫌でもニュース等が耳に入っていたが、一人暮らしを始めてからテレビをあまり見なくなってしまったので、社会情勢の理解度は明らかに低下している。代わりに見ているYouTubeも気に入った娯楽的な動画しか挙げてこないので、世の中がどうとかは殆ど知ることはない2。
無限に広がり何でもあるはずのインターネットが、その全てに広がりすぎたせいか、近くしか知覚 3できなくなってしまったのは皮肉である。 これがフィルターバブルというものなのだろうが、個人的には別にそれが悪いとも思っていない。それがまぁ大層な主義主張やらに結びついてしまうと大変なのかもしれないが、僕には別に言いたいことなんて無い 4 のだ。
エコーチェンバー現象のように、自分のコミュニティの意見が世の中の意見だと誤解することが危険であることに間違いないが、インターネットが広いことを知った上で、自分の欲しいものだけを集めるのはごく自然なことではないのだろうか。そりゃ健康的ではないかもしれないが、咎められるほどのことでも無いように思う。清濁併せ呑むように炎上からバズワードまで網羅できたほうがすごいのかもしれないけど、そんなことしても疲れるだけだし。
バランス感覚でいうと、先述したような、「ちょっとうっとおしいと思った一人二人」をミュートにしたくなったら危険なのかなって思う。インターネットは広いし、世の中も広い。草枕の冒頭のように、住みにくいところをなるべく快適にはしつつ、自分の都合だけで見るものを歪めてしまうのはだめだ。それだと詩は死ぬし、歌は枯れるのである。