昔は、死後の世界に行ったとき、何歳のときの自分になるんだろう、ということをよく考えていた。
死んだ時点なんだったら早く死んだほうが得だよなぁとか。
好きな時点を選べるんだったら、その記憶は?、交友関係は?
友人が同じ時点を選ばなかったら意味なくない??とか。考えても仕方のないことだ。
最近は、私は子どもの頃の自分に会って、いい影響を与えられる大人になれただろうか、
みたいなことを考えている。これも意味のない妄想だけど。
たとえば、急に過去にタイムスリップして、もっとも多感な時期のn歳の私と出会ったら。
私は失望されないだろうか、みたいな。
与えられたものに満ち足りなさを感じながらも、まだ何にでもなれると信じていた小学生のわたし。
当時の家計が苦しかった中でも最大限を与えてくれたことを今はもう知っている。
それでも当時のわたしには全然足りなかったのだ。
自分の力を過信して、背伸びばかりしていた中学生のわたし。
反抗をする周囲や兄弟を見ながら、こうはなるまいと、すべてを見下していた。
実際虚勢だけで見栄を張っているばかりだったことを、恥ずかしく苦々しく思う。
色々なことがあったおかげで、大人のことはすっかり嫌いになってしまった高校生のわたし。
今思えば、そこまで大人に勝手に期待していたなんて、やっぱりまだまだ子どもだったのだろうけれど。
それでも、そんな大人にこれから自分がなるのだ、というやり場のなさになんと言葉をかけるだろうか。
子どものわたしから見て、今の私が自身のまさに将来の姿であると、信じられるだろうか。
その事実に対して私にどんな言葉をかけるのだろうか。
口ばっかりうまくなった私は、それっぽいことを言ってごまかして、
いつかのわたしはそれで騙されるし、ちがうわたしは失望して私を軽蔑するだろう。
でも結局のところ、子どものころから全然変わっていない気がする。
成長していないというか、学んでいないというか。
結局昔も口先だけで他人を欺いていたし、今も周囲をうっすらと見下しているんだと思う。
多少マシになったとはいえ、大人のこともまだ嫌いなままだ。当然そういう大人になった自分のことも。
大学生のとき、私がお世話になった教授たちはみんなインターネット上では発言をしない人たちだった。
研究者とはみんなそういうものなのかもしれないとも思ったが、あまり好きではなかった教授はそうではなかった。
(その教授は今でもたまにテレビでもっともらしいコメントをする仕事をしているのを見る。)
インターネットを研究しているから、自分が研究対象のノイズになってしまってはね、みたいなことを、
本当に日本のインターネットの当初に関わったらしい教授は言っていた気がする。
その教授の研究室は足の踏み場もない程、冗談じゃなく床から天井まで書籍が積み上がっていたし、
私が卒業するときにもちょっと高すぎるんじゃない?って額の図書カードをもらったので、
もしかしたらインターネットより本の方が好きだったのかもしれない。
私だったら、自分の研究対象は一番好きなものがすると思うし、
実際私の卒業研究のテーマは、当時一番興味のあったことにした。
興味のあること、好きなことに関心を払わずに、
――しかもインターネットというのはインタラクティブなこともできるメディアであるのに、
何も発信せずにいられるものだろうか。
もしかしたら昔は、教授の一番もインターネットだったのかもしれない。
「インターネットは好きですか。」そういえば教授に訊いたことはなかった。
私は小学生の時の体験が忘れられなくて、その時からインターネットという概念が好きだ。
学術的なこととか、技術的なこととかは実はどうでも良くて、もっとうっすらとした、なんとなくな気持ち。
子どもの頃の憧れとか、昔の成功体験とか、アニメとかゲームとか小説とか映画とかで語られてきた、キラキラした何かによるもの。
デジタルデータだけで、すべてとコミュニケーションが取れる世界。情報の宇宙。
今や憧れもなにも、常にそこにあって、当たり前のありふれたものになってしまった。 デジタルデータだけがすべてだったそこは、いつの間にかそれを操る人間の方にばかり注目されるようになった。 インターネットと現実は地続きであり、炎上やら何やらが幅を効かせているように見えるのも、そのためだろう。
つまらないものに言及することほどつまらないこともないと思う。
その情報に価値がない、という情報にどれほどの意味があるというのか。
逆に無価値の情報量を不当に引き上げているだけじゃないのか。
せっかく人間にフォーカスするなら、もっとくだらない、語るにも値しないようなことを話したい。
今日は何を食べたとか、どこに行ったとか、本の感想とか。どこに投げても仕方のないその気持ちを。
いつか、話す相手を選ぶような、大人になってしまう、その前に。